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Нацумэ Сосэки – 吾輩は猫である / Ваш покорный слуга кот. Книга для чтения на японском языке (страница 6)

18

「例の松た、何だい」と主人が断句《だんく》を投げ入れる。

「首懸《くびかけ》の松さ」と迷亭は領《えり》を縮める。

「首懸の松は鴻《こう》の台《だい》でしょう」寒月が波紋《はもん》をひろげる。

「鴻《こう》の台《だい》のは鐘懸《かねかけ》の松で、土手三番町のは首懸《くびかけ》の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔《むか》しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊《くく》りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊《くびくく》りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三|返《べん》はきっとぶら下がっている。どうしても他《ほか》の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、四辺《あたり》を見渡すと生憎《あいにく》誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっては命がない、危《あぶ》ないからよそう。しかし昔の希臘人《ギリシャじん》は宴会の席で首縊《くびくく》りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他《ほか》のものが台を蹴返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向《しゅこう》である。果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓《しわ》る。撓り按排《あんばい》が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし東風《とうふう》が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風《とうふう》に逢《あ》って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」

「それで市《いち》が栄えたのかい」と主人が聞く。

「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。

「うちへ帰って見ると東風は来ていない。しかし今日《こんにち》は無拠処《よんどころなき》差支《さしつか》えがあって出られぬ、いずれ永日《えいじつ》御面晤《ごめんご》を期すという端書《はがき》があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊《くく》れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と云って主人と寒月の顔を見てすましている。

「見るとどうしたんだい」と主人は少し焦《じ》れる。

「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の紐《ひも》をひねくる。

「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神《しにがみ》に取り着かれたんだね。ゼ ムスなどに云わせると副意識下の幽冥界《ゆうめいかい》と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応《かんのう》したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。

主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅《くうやもち》を頬張《ほおば》って口をもごもご云わしている。

寒月は火鉢の灰を丁寧に掻《か》き馴《な》らして、俯向《うつむ》いてにやにや笑っていたが、やがて口を開く。極めて静かな調子である。

「なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません」

「おや君も首を縊《くく》りたくなったのかい」

「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですからなおさら不思議に思われます」

「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。

「その日は向島の知人の家《うち》で忘年会|兼《けん》合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携《たずさ》えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。晩餐《ばんさん》もすみ合奏もすんで四方《よも》の話しが出て時刻も大分《だいぶ》遅くなったから、もう暇乞《いとまご》いをして帰ろうかと思っていますと、某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので、実はその両三日前《りょうさんにちまえ》に逢った時は平常の通りどこも悪いようには見受けませんでしたから、私も驚ろいて精《くわ》しく様子を聞いて見ますと、私《わたく》しの逢ったその晩から急に発熱して、いろいろな譫語《うわごと》を絶間なく口走《くちばし》るそうで、それだけなら宜《い》いですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです」

主人は無論、迷亭先生も「御安《おやす》くないね」などという月並《つきなみ》は云わず、静粛に謹聴している。

「医者を呼んで見てもらうと、何だか病名はわからんが、何しろ熱が劇《はげ》しいので脳を犯しているから、もし睡眠剤《すいみんざい》が思うように功を奏しないと危険であると云う診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起ったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。帰り道にもその事ばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あの奇麗な、あの快活なあの健康な○○子さんが……」

「ちょっと失敬だが待ってくれ給え。さっきから伺っていると○○子さんと云うのが二|返《へん》ばかり聞えるようだが、もし差支《さしつか》えがなければ承《うけたま》わりたいね、君」と主人を顧《かえり》みると、主人も「うむ」と生返事《なまへんじ》をする。

「いやそれだけは当人の迷惑になるかも知れませんから廃《よ》しましょう」

「すべて曖々然《あいあいぜん》として昧々然《まいまいぜん》たるかたで行くつもりかね」

「冷笑なさってはいけません、極真面目《ごくまじめ》な話しなんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になった事を考えると、実に飛花落葉《ひからくよう》の感慨で胸が一杯になって、総身《そうしん》の活気が一度にストライキを起したように元気がにわかに滅入《めい》ってしまいまして、ただ蹌々《そうそう》として踉々《ろうろう》という形《かた》ちで吾妻橋《あずまばし》へきかかったのです。欄干に倚《よ》って下を見ると満潮《まんちょう》か干潮《かんちょう》か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。花川戸《はなかわど》の方から人力車が一台|馳《か》けて来て橋の上を通りました。その提灯《ちょうちん》の火を見送っていると、だんだん小くなって札幌《さっぽろ》ビ ルの処で消えました。私はまた水を見る。すると遥《はる》かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面《おもて》をすかして見ましたが暗くて何《なん》にも分りません。気のせいに違いない早々《そうそう》帰ろうと思って一足二足あるき出すと、また微《かす》かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。三度目に呼ばれた時には欄干に捕《つか》まっていながら膝頭《ひざがしら》ががくがく悸《ふる》え出したのです。その声は遠くの方か、川の底から出るようですが紛《まぎ》れもない○○子の声なんでしょう。私は覚えず「は い」と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月も何《なん》にも見えません。その時に私はこの「夜《よる》」の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいと云う気がむらむらと起ったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は「今|直《すぐ》に行きます」と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。どうも私を呼ぶ声が浪《なみ》の下から無理に洩《も》れて来るように思われましてね。この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いて来る。ここだと思って力を込めて一反《いったん》飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」

「とうとう飛び込んだのかい」と主人が眼をぱちつかせて問う。

「そこまで行こうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。

「飛び込んだ後《あと》は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも濡《ぬ》れた所《とこ》も何もない、水を飲んだような感じもしない。たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛び下りたので、その時は実に残念でした。前と後《うし》ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです」寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織の紐《ひも》を荷厄介《にやっかい》にしている。

「ハハハハこれは面白い。僕の経験と善く似ているところが奇だ。やはりゼ ムス教授の材料になるね。人間の感応と云う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と迷亭先生が追窮する。

「二三日前《にさんちまえ》年始に行きましたら、門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」

主人は最前から沈思の体《てい》であったが、この時ようやく口を開いて、「僕にもある」と負けぬ気を出す。

「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などは無論ない。

「僕のも去年の暮の事だ」

「みんな去年の暮は暗合《あんごう》で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のうちに空也餅《くうやもち》が着いている。

「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。

「いや日は違うようだ。何でも二十日《はつか》頃だよ。細君が御歳暮の代りに摂津大掾《せっつだいじょう》を聞かしてくれろと云うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君が新聞を参考して鰻谷《うなぎだに》だと云うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると細君がまた新聞を持って来て今日は堀川《ほりかわ》だからいいでしょうと云う。堀川は三味線もので賑やかなばかりで実《み》がないからよそうと云うと、細君は不平な顔をして引き下がった。その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、私は是非|摂津《せっつ》の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜《い》いでしょうと手詰《てづめ》の談判をする。御前がそんなに行きたいなら行っても宜《よ》ろしい、しかし一世一代と云うので大変な大入だから到底《とうてい》突懸《つっか》けに行ったって這入《はい》れる気遣《きづか》いはない。元来ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在《あ》ってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない、残念だが今日はやめようと云うと、細君は凄《すご》い眼付をして、私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、大原のお母あさんも、鈴木の君代さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数《てすう》のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。すると君不思議な事にはその時から急に悪寒《おかん》がし出してね」

「奥さんがですか」と寒月が聞く。

「なに細君はぴんぴんしていらあね。僕がさ。何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮《いしゅく》する感じが起ると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった」

「急病だね」と迷亭が註釈を加える。

「ああ困った事になった。細君が年に一度の願だから是非|叶《かな》えてやりたい。平生《いつも》叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上《しんしょう》の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水《さいそうしんすい》の労に酬《むく》いた事はない。今日は幸い時間もある、嚢中《のうちゅう》には四五枚の堵物《とぶつ》もある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱《くつぬぎ》へ降りる事も出来ない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木《あまき》医学士を迎いにやると生憎《あいにく》昨夜《ゆうべ》が当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。困ったなあ、今|杏仁水《きょうにんすい》でも飲めば四時前にはきっと癒《なお》るに極《きま》っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外《はず》れそうになって来る。細君は恨《うら》めしい顔付をして、到底《とうてい》いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますます劇《はげ》しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行《りこう》する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知れない。情《なさ》けない仕儀になって来た。どうしたら善かろう。万一の事を考えると今の内に有為転変《ういてんぺん》の理、生者必滅《しょうじゃひつめつ》の道を説き聞かして、もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫《おっと》の妻《つま》に対する義務ではあるまいかと考え出した。僕は速《すみや》かに細君を書斎へ呼んだよ。呼んで御前は女だけれども many a slip 'twixt the cup and the lip と云う西洋の諺《ことわざ》くらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、宜《よろ》しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そんなに英語が御好きなら、なぜ耶蘇学校《ヤソがっこう》の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕《けんまく》なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。全く妻《さい》を愛する至情から出たので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒《おかん》と眩暈《めまい》で少し脳が乱れていたところへもって来て、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急《せ》き込んだものだから、つい細君の英語を知らないと云う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。考えるとこれは僕が悪《わ》るい、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。眼はいよいよぐらぐらする。妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌《もろはだ》を脱いで御化粧をして、箪笥《たんす》から着物を出して着換える。もういつでも出掛けられますと云う風情《ふぜい》で待ち構えている。僕は気が気でない。早く甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。「そろそろ出掛けましょうか」と妻君が書斎の開き戸を明けて顔を出す。自分の妻《さい》を褒《ほ》めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど細君を美しいと思った事はなかった。もろ肌を脱いで石鹸で磨《みが》き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬《くろちりめん》の羽織と反映している。その顔が石鹸と摂津大掾《せっつだいじょう》を聞こうと云う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと云う気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺《なが》めて、手を握って、胸を敲《たた》いて背を撫《な》でて、目縁《まぶち》を引っ繰り返して、頭蓋骨《ずがいこつ》をさすって、しばらく考え込んでいる。「どうも少し険呑《けんのん》のような気がしまして」と僕が云うと、先生は落ちついて、「いえ格別の事もございますまい」と云う。「あのちょっとくらい外出致しても差支《さしつか》えはございますまいね」と細君が聞く。「さよう」と先生はまた考え込む。「御気分さえ御悪くなければ……」「気分は悪いですよ」と僕がいう。「じゃともかくも頓服《とんぷく》と水薬《すいやく》を上げますから」「へえどうか、何だかちと、危《あぶ》ないようになりそうですな」「いや決して御心配になるほどの事じゃございません、神経を御起しになるといけませんよ」と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。細君の厳命で馳《か》け出して行って、馳《か》け出して返ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前頃から、今まで何とも無かったのに、急に嘔気《はきけ》を催《もよ》おして来た。細君は水薬《すいやく》を茶碗へ注《つ》いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取り上げて飲もうとすると、胃の中からげ と云う者が吶喊《とっかん》して出てくる。やむをえず茶碗を下へ置く。細君は「早く御飲《おの》みになったら宜《い》いでしょう」と逼《せま》る。早く飲んで早く出掛けなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうとまた茶碗を唇へつけるとまたゲ が執念深《しゅうねんぶか》く妨害をする。飲もうとしては茶碗を置き、飲もうとしては茶碗を置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。さあ四時だ愚図愚図してはおられんと茶碗をまた取り上げると、不思議だねえ君、実に不思議とはこの事だろう、四時の音と共に吐《は》き気《け》がすっかり留まって水薬が何の苦なしに飲めたよ。それから四時十分頃になると、甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、背中がぞくぞくするのも、眼がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気がたちまち全快したのは嬉しかった」

「それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい」と迷亭が要領を得んと云う顔付をして聞く。

「行きたかったが四時を過ぎちゃ、這入《はい》れないと云う細君の意見なんだから仕方がない、やめにしたさ。もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたら僕の義理も立つし、妻《さい》も満足したろうに、わずか十五分の差でね、実に残念な事をした。考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ」

語り了《おわ》った主人はようやく自分の義務をすましたような風をする。これで両人に対して顔が立つと云う気かも知れん。

寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と云う。

迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な夫《おっと》を持った妻君は実に仕合せだな」と独《ひと》り言《ごと》のようにいう。障子の蔭でエヘンと云う細君の咳払《せきばら》いが聞える。

吾輩はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間を潰《つぶ》すために強《し》いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。吾輩の主人の我儘《わがまま》で偏狭《へんきょう》な事は前から承知していたが、平常《ふだん》は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑《けいべつ》したくなった。かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚《ぐ》にもつかぬ駄弁を弄《ろう》すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに主人も寒月も迷亭も太平《たいへい》の逸民《いつみん》で、彼等は糸瓜《へちま》のごとく風に吹かれて超然と澄《すま》し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気《しゃばけ》もあり慾気《よくけ》もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常|罵倒《ばとう》している俗骨共《ぞっこつども》と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の半可通《はんかつう》のごとく、文切《もんき》り形《がた》の厭味を帯びてないのはいささかの取《と》り得《え》でもあろう。

こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、三毛子の様子でも見て来《き》ようかと二絃琴《にげんきん》の御師匠さんの庭口へ廻る。門松《かどまつ》注目飾《しめかざ》りはすでに取り払われて正月も早《は》や十日となったが、うららかな春日《はるび》は一流れの雲も見えぬ深き空より四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の面《おも》も元日の曙光《しょこう》を受けた時より鮮《あざや》かな活気を呈している。椽側に座蒲団《ざぶとん》が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御師匠さんは湯にでも行ったのか知らん。御師匠さんは留守でも構わんが、三毛子は少しは宜《い》い方か、それが気掛りである。ひっそりして人の気合《けわい》もしないから、泥足のまま椽側《えんがわ》へ上《あが》って座蒲団の真中へ寝転《ねこ》ろんで見るといい心持ちだ。ついうとうととして、三毛子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。